映画評論3 ドリームガールズ 【「自己の尊厳」のために闘う】

1 あらすじとテーマ

 私の趣味は妻と二人のドライブ。車の中でよく聞くのが、この「ドリームガールズ」のサウンドトラックです。なかでもお気に入りは、ビヨンセ(ディーナ役)の歌う“Listen”と、ジェニファー・ハドソン(エフィ役)の歌う”I Am Changing” 。どちらも女性の自立を高らかに歌う、壮大なバラードです。

この映画の舞台は、1960年代のアメリカ・デトロイト。 幼なじみ黒人女性3人(ディーナ、エフィ、ローレル)で結成されたボーカルバンド「ドリー・メッツ」は、ビジネス界の野心家カーティスの目にとまります。そして、3人はカーティスの口利きで黒人ボーカリスト、ジミー・アーリー(エディ・マフィー)のバックバンドに抜擢されます。カーティスの野望はとどまるところを知らず、さらに白人受けするサウンドを目指して女性3人のバンド「ドリームズ」を結成、3人は大ヒットを飛ばし、一躍有名になります。
ところが、この頃から、メンバーに亀裂が走り始めます。エフィはバンドを抜けてしまい、他方、大スターになったディーナもカーティスに支配された人生に疑問を持ち始めます。やがて2人の女性は自己の尊厳に目覚め自立していく、というのが大体のストーリーです(なお、「黒人」という表現は現在ではやや差別的であり、「アフリカン・アメリカン」が正しいという説がありえますが、ここでは分かりやすさを優先して「黒人」に統一します。)。

この映画には実はモデルがありました。カーティスが創設するレコード・レーベルは、やはり60年代に創設された実在のレーベル「モータウン」がモデルであり、「ドリームズ」のモデルは、伝説的な黒人女性ヴォーカル・グループ「シュープリームズ」でした。若き黒人女性ソウル・スター、ビヨンセが演じる「ディーナ」のモデルは、あの「ダイアナ・ロス」です。映画上「ローレル」に当たるメアリー・ウィルソンの自伝が『ドリームガールズ』としてブロードウェイで上演され大ヒットとなり、映画化に至ったのです。

ビヨンセ、ジェニファー・ハドソン、エディ・マフィーら、パワフルで表現力豊かな歌声、スリリングなダンスの素晴らしさは、言うまでもありませんが、「人権と平和を考える」観点からみても、実に考えさせられることの多い映画です。

「ドリームガールズ」に秘められたメッセージは一口に言えば「人間の尊厳」を取り戻すたたかいの困難さと素晴らしさ。「人間の尊厳」を侵す最大のものの一つは「差別」です。「ドリームガールズ」は(広い意味での)「人種差別」「女性差別」の二つをさりげなく描くことで、差別とたたかい、人間の尊厳を勝ち取っていく人々の姿を描いた、というのが私の解釈です。

2 「黒人の誇り」を取り戻すための闘い

「ドリームガールズ」前半は、「人種問題」を背景にして展開されます。それは、黒人差別社会から這い上がり、黒人としての誇りを取り戻そうとしながら、徐々に白人社会に取り込まれてしまう黒人の物語であり、その主人公は、野心家カーティスです。
黒人として車の街デトロイトに生まれ、小さな中古車の販売店を営んでいたカーティスは、いつしか白人にも負けない大きなビジネスをやってやろうと考えていたのでしょう。エフィらの才能に目をつけ、直ちに行動を開始します。自らもプロデュースに加わり制作したポップなナンバー「キャデラックカー」が大当たりしますが、曲は白人に奪われてしまいます。
怒りに燃える仲間に対して、カーティスは言い放ちます。

プレスリーのような白人のシンガーは、黒人の音楽を奪って成功した。俺はそうはさせない。どんな汚い手段でも使ってやる!俺についてこい!

カーティスの決意を唱うのが、パワフルなナンバー、”Steppin’ To The Bad Side” 。このバックダンサー、かっこいいですねえ。 

ブルースやジャズ、ソウルは、黒人にとっていわば民族音楽。その民族音楽を守る民族資本を建設して、黒人の手で発展させることは、公民権運動を中心とする60年代の黒人解放運動時代の空気にマッチしていたのではないでしょうか。 映画には、黒人のラジオ局は電波が弱く聞こえなくなってしまうシーン、マイアミに進出したバンドに司会者が「黒人は歌が終わったら床を磨くのだろう」と差別発言をするシーン、そしてデトロイト暴動など、黒人差別を想起させるエピソードが数多く挿入されています。人種問題はこの映画の背骨を形作っているのです。

公民権運動に対するカーティスの立場を示す場面が挿入されていました。公民権運動の指導者マーティン・ルーサー・キング牧師の演説を録音したレコードをカーティスが発売する場面です。実利主義のカーティスがキング牧師の積極的な支持者であったとは思えません。しかし、圧倒的に不利な黒人社会から立ち上がり、白人に負けない音楽レーベルを作ってのし上がってやろうという彼の“夢”は、黒人が白人と平等に暮らす社会を目指すキング牧師の“夢”と重なる部分も多かったのでしょう。

ところが、です。

3 「差別」と闘うことの困難さ

 白人社会を乗り越え、自らの尊厳を取り戻そうとするカーティスですが、マイアミ進出の辺りから、次第にその姿勢に変質が見え始まります。カーティスは、富と栄達を手っ取り早く手に入れるため、黒人であることを前に出すよりは、白人と同質化する途を選び始めるのです。音楽の上でいうと、カーティスは、泥臭くソウルフルなサウンドではなく、“白人受け”する“ポップな”サウンドを目指し始めます。このため、カーティスは、パワフルかつソウルフルに泥臭く歌うエフィをリード・ボーカルから外してしまうのです。カーティス、ディーナとの三角関係もあって、エフィはグループを離脱してしまいます。カーティスの路線について行けず、自分を見失ったジミー・アーリー(エディ・マフィー)は、やがて悲惨な最期を遂げてしまいます。
ここに「差別」と向き合うこと困難さがあります。「差別される側」にとって「差別」から解放される手っ取り早い方法は「差別する側」に同化してしまうことです。「黒人差別」の場合でいえば、黒人(差別される側)であることを止めて白人(差別する側)になってしまえば差別から解放されることになります。カーティスが選んでしまった途は、「黒人解放」ではなく、「白人社会への同化」だったのでしょう。 しかし、黒人が自らのアイデンティティを捨てて「白人に同化する」ということは、「自分でない他人」に同化するということです。そのような方法で果たして「人間の尊厳」は回復できるのでしょうか?これが「ドリームガールズ」の隠された第1のテーマです。

他方、ビジネスに大成功したカーティスは、ディーナに近づいていくのですが、白人との差別とたたかう「黒人社会」には実は「男性優位」という弱点が隠されていました。「差別される側」の内部に「差別される人々」が入れ子になっている図式です。マッチョで強面のカーティスにも黒人社会の弱点が典型的に現れていました。「差別される側」の内部に潜む「差別」に、ディーナはどのように向かい合うのか。これが、「ドリームガールズ」の第2のテーマなのです。

4 「自己の尊厳」のために闘うエフィ

 さて、「ドリームガールズ」後半の主役は、「自己の尊厳」を勝ち取るために、さらにたたかいつづけるディーナ、エフィの二人の女性です。白人社会への同化を目指し、家庭ではDV夫と化してしまったカーティスは、ここでは悪玉になります。

 まず、エフィ。
 エフィが場末のバーで自らの再起を誓う壮大なバラードが”I Am Changing” 。「私は変わった」「今の私を誰も止められない」と歌うこの曲は、人間の尊厳や生きることの喜びを感じさせてくれる、本当に素晴らしい曲です。一時カーティスの恋人となり、カーティスに依存しきっていたエフィの自立の過程も感動的。人が誇りを失わず、自分らしく生きていくことの大切さを教えてくれます。

 ここで、エフィの衣装と髪型にご注目ください。バンドに残ったディーナらが白人受けするストレートな髪型をしているのに対して、精神的独立を果たしたエフィは、アフロ・ヘアとアフリカンな服装で自己を表現し始めます。白人への同化に手を染めて黒人文化を捨てていこうとするカーティスは、ソウルにこだわるジミー等昔の仲間を切り捨てていくわけですが、他方、カーティスから独立したエフィは、白人に迎合的なブルースやソウルといった文化を乗り越え、さらに“アフリカン・アメリカン”の文化へと足を踏み入れていくのです。
続き
 ここに第1のテーマに対する一つの答え方があります。「差別」を克服する真の道は、単に「差別する側」と「差別される側」を形式的に平等に扱ったり、後者を前者に同化したりするのではない、「差別される側」が自己のアイデンティティへの自信と誇りを取り戻すことによって、差別構造の前提自体を組み直していくことだ、というのです。「黒人」は「黒人」らしく、「黒人」であることに誇りを持つことによって解放される、「Black is beautiful」(「黒いことは美しい」)だ!、というわけです(同じテーマは、南アの伝説的黒人解放運動リーダー、ビコーを描いた「遠き夜明け」(リチャード・アッテンボロー監督)、同じく黒人解放運動リーダー、マルコムXを描いた「マルコムX」(スパイク・リー監督)でも扱われていますので、注意して見てみてください。)。

 もちろん、このような考え方が全ての差別問題においてうまくいくとは思いません。「女性差別」を例にとれば、「女性は女性らしく」という考え方こそ差別を助長するわけで、この場合は、むしろ「女性」と「男性」を形式的に平等に扱うことの方が重要になります。また、「民族文化」や「宗教」の個性や自立性を重んじすぎると、当該文化圏内部での差別が見えにくくなる(例えばイスラム教文化の中の女性差別の問題)点でも難しいところです。

 さらに、この問題をさらに突き詰めていくと、黒人は黒人であることを離れて「自分らしく」あることはできないのか?「自分らしさ」とは、結局自分が所属する人種なり民族なりを離れてはあり得ないのか?という疑問が生じますが、ここではこのくらいにしておきましょう。

5 自立を目指すディーナ

 さて、スーパースター、ビヨンセ演じるディーナです。
 エフィからリードボーカルをバトンタッチし、ドリームズのリードボーカルとして一躍有名になったディーナは、カーティスの妻となり、公私ともにカーティスのパートナーになります。「ディーナは俺の夢だった」(“When I saw you”から)と歌い上げるカーティスは、ディーナをトップスターに育て上げることで自分もスターダムにのし上がろうとするのですが、ディーナはカーティスに支配された人生に次第に疑問を持ち始めます。そして、映画で黒人の女王クレオパトラ役を引き受けさせようとするカーティスを裏切り、別の映画で自己表現をしようと画策するのです。

 ディーナにクレオパトラ役を引き受けさせようとするカーティスは、ディーナに向かって言います。
「黒人の女の子たちは君を見るだろう。そして、『自分はどんな女にもなれる』とおもうはずだ」
 これは、「黒人が自信を取り戻すことで自立を果たす」論理、“Black is beautiful”の論理に通じるものがありますね。カーティスは「黒人解放」を捨てきっていないようです。ただ、彼の弱点は、ディーナを“自分の”夢を実現するための道具としかみていないところでした。女性を道具としてみて支配しようとするカーティスには、女性差別の構造を内包する男性社会の、典型的な弱点があったのです。

 カーティスの支配を脱して「本当の自分」を探し始めたディーナは、カーティスの論理には全く納得しません。映画に「ごまかしのない話」を求め、“汚れ役”を引き受けたいと考えるディーナは、作り上げられた「黒人」像を演じることより、リアルな「自分」を表現したいと考えているようです。「黒人」でもなく「白人」でもない「自分」を選んだ、と解釈できるかもしれません。そうだとすると、ディーナは第1のテーマについて彼女なりの答えを出したことになります。DV夫と化したカーティスは、なおもディーナを支配しようとしますが、ディーナは、カーティスからの独立を宣言します。

 ディーナがカーティスからの精神的独立を唱う曲が、冒頭にあげた“Listen”です。「ここは自分の家じゃない」こと、「自分は十字路でひとりぼっち」であることに気づいたディーナは、「自分自身を探しに行こう」と歌い上げ、カーティスのもとを去ります。人に頼ることしかできなかった女性の、堂々たる自立を歌い上げる、美しいバラードです。
 
 ここで第2のテーマに対する答えが示されます。「差別される側」の内部に潜む「差別」に対して、ディーナが出した答えは、「女性の自立」でした。果たして「自立」を果たしたディーナは、その後どうなるのか、ここは観客の想像に委ねられます。

6 「ドリームガールズ」のすばらしさ

 こうして、「白人社会からの黒人の自立」から始まった物語は、「男性社会からの女性の自立」により幕を閉じます。エンディングで、エフィが、タイトル曲“Dream girls”を熱唱するシーンは、実に美しい。女性同士の友情もすがすがしい。
 
 「ドリームガールズ」のすばらしさは、「差別」の問題を平板に描いていないことです。「差別」とは、「差別される側」と「差別する側」が単純に対立しているのではなく、時として「差別される側」が「差別する側」に回ってしまうこともある、そして、それに気づいたとき、自立を求める新たなたたかいが始まるのです。

 物事の善悪は単純じゃなく、人生は単純じゃない。人は悩み、苦しみながら、一歩一歩前に進んで「人間の尊厳」を勝ち取っていく。ここに人生の素晴らしさと妙味がある、そんな風に思わせてくれる映画です。

(「ドリームガールズ」 監督:ビル・コンドン 2006年アメリカ)


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