映画評論1 アバター 【最強の反戦映画】

1 アバターのストーリー

 3D映像の美しさで評判になり、アカデミー賞にもノミネートされました。映像技術のすばらしさもさることながら、ストーリーもなかなかであり、私は、「最強の」反戦・非戦映画である、と思っています。

 時は西暦2154年。戦闘による負傷で下半身が麻痺し、車椅子の生活を送っていた元海兵隊の兵士ジェイクは、地球から5光年離れた惑星パンドラでの任務についていました。
 豊かな大自然と未知の動植物が生息するパンドラの地底には、地球の燃料危機を解決する鉱石“アンオブタニウム”が眠っています。そこに目をつけた開発会社は、ジェイクら元兵士を傭兵として雇い、先住民族“ナヴィ”を立ち退かせようと画策していたのです。
 ジェイクは、ナヴィと人間のDNAを組み合わせた肉体“アバター”にリンクしてスパイとしてナヴィの村に潜入します。そしてナヴィと触れ合ううちに、族長の娘と恋に落ちます。ジェイクが次第にパンドラの生命を脅かす任務に疑問を抱くようになっていたところ、開発会社は爆撃機を送り込んでナヴィの聖地に攻撃を仕掛けてきた、というストーリーです。

2 人は何故、「戦争」をするのか?

 私がアバターを「最強の」反戦・非戦映画であると主張するゆえんは、この映画がメッセージとしての「反戦」を声高に唱えるのではなく、戦争の原因を具体的かつ素直に解き明かしていることです。

 この映画が指摘する戦争の原因は、一言でいえば、人間(とりわけ資本家)の強欲。パンドラの地下資源を奪おうとする開発会社の強欲が、ナヴィと人類との戦争の原因でした。

 アバターの開発会社に限らず、企業は地下資源や市場を求めて海外に進出します。その企業を助けて国家が軍隊を動かすとき、戦争が始まります。先の二つの世界大戦が正にそうでした。日本は満州や中国、東南アジアに市場や地下資源を求めて戦争を始めたのです。他人の国を植民地にして地下資源や市場をものにしようとする戦争を「帝国主義戦争」と呼ぶのが通例です。ナヴィに対する人類の戦争はまさに「帝国主義戦争」でした。

 帝国主義戦争は過去のものではありません。2003年に始まったイラク戦争は「石油のための戦争」だったのではないかとの疑いがもたれています。実際、イラク戦争終結後、アメリカの大企業が大挙してイラクに押し寄せ利益を得たことは、マイケル・ムーア監督の映画「華氏911」に描かれています。
 戦争が企業にもたらす利益は鉱物資源や市場の獲得にとどまりません。例えば兵器を作る軍事産業は大変な利益を上げます。軍隊と軍事産業と国はやがて一体化して軍産複合体を形成します。企業は利益を上げるために戦争を欲するようになるし、国は企業の利益のために仕えるようになり、やがては、企業の利益のために戦争さえ始めるようになります。企業はそれでも満足せず、やがて傭兵を雇って自ら戦闘をするようにすらなるのです。

 「アバター」に登場する軍隊のモデルは米海兵隊です。米海兵隊といえば、アメリカが行う戦争で敵地に対する最初の攻撃を担当する“殴り込み部隊”。1890年代以降、米海兵隊は中南米での侵略の尖兵となりました。海兵隊の侵略の後には企業が続き、商品を売り、プランテーションを作り、油田を掘り、鉱山の採掘権を取得しました。海兵隊の英雄スメドレー・D・バトラー将軍は1931年に「私は海兵隊に33年間いたが、その大半は大企業、ウオール街、銀行の高級用心棒だった」と述べています。

 帝国主義戦争は、社会主義者の大きなテーマでした。小林多喜二「蟹工船」には、労働者同士のこんな会話がでてきます。

 「俺初めて聞いて吃驚したんだけれどもな、今迄の日本のどの戦争でも、本当は、底の底をわってみれば、みんな二人か三人の金持ちの(そのかわり大金持ちの)指図で、動機だけはいろいろこじつけて起こしたもんだけとよ。何んしろ見込みある場所を手にいれたくて、手に入れたくてバタバタしているんだそうだからな、そいつ等は。危ないそうだ」

 そう、「アバター」で「見込みある場所」はパンドラであり、開発会社は「手にいれたくてバタバタ」して戦争を起こしたのです。

 「アバター」に登場する軍隊が正規軍ではなく、傭兵である点も、現代の戦争風刺としては、なかなかいけてます。「戦場の掟」(スティーヴ・ファイナル (著), 伏見 威蕃 翻訳 2009年 講談社)をお読みください。イラク戦争では正規軍ではなく、企業の雇った警備会社(傭兵)が活躍し、また市民への殺傷など多くの問題を起こしました。ファルージャ虐殺事件のきっかけを作った「ブラックウオーター」がその典型です。傭兵は、国際法が直接適用されない点、倫理面で規律が乱れがちな点など、正規軍にまして問題が多い軍隊です。「アバター」はあえて傭兵を描くことで現在の戦争の醜さを観客に理解させようとしたのでしょう。

3 現代文明への疑問とその限界

 「アバター」は、帝国主義戦争に対する批判と同時に現代アメリカ文明に対する根源的な疑問をも投げかけています。
 18世紀、イギリスからの独立を勝ち取ったアメリカ人らは、北アメリカ全土を征服するのが自らの運命(マニフェスト・デスティニー 明白なる運命)だとして、西部を侵略しました。その過程で自然との共生など美しい文化を持つネイティブ・アメリカンの文明は滅ぼされてしまいました。その様子は例えば、「ダンス・ウイズ・ウルブズ」(ケビン・コスナー主演)のような映画からも学ぶことができます(ちなみに現地人と同化して軍隊を裏切るアバターのストーリーは、「ダンス・ウイズ・ウルブズ」のストーリーにそっくりです。)。
 ナヴィは、乗馬のスタイルや戦闘のやり方から、明らかにアメリカ先住民、ネイティブアメリカンをモデルにしていると考えられます。キャメロン監督は、自然と人間の共生と精神性を重んじるナヴィの文化を美しく描くことで、物質優先のアメリカ文明に疑問を投げかけようとしたのではないでしょうか。

 とはいえ、「人権と平和」を考える見地からすると、「アバター」にも欠陥を指摘せざるを得ません。
 まず、先住民文明を典型(ステレオタイプ)化したナヴィには、アメリカ人が先住民に対して持つ、一定の偏見が投影されていないかという疑問があります。「ダンス・ウルブズ」もそうでしたが、アメリカ人が先住民を描くと、やたら「精神性」「神秘主義」ばかり強調される傾向があります。禅やヨガにはまる西洋人が東洋を理解しているとは限りません。まして先住民ナヴィが呪術を使って人を生き返らせるという設定はいかがなものか。ナヴィが儀式で使う踊りも、どこかの先住民の民族舞踊を借用しているとすれば、なんだか失礼な気がします。

 上に関連しますが、エンディングはあれでよかったのか。圧倒的な地球軍(アメリカ軍)に押されていたナヴィが守護神(エイワ)の助けで逆転する、というのは、(ハリウッド映画にありがちなこととはいえ)あまりに安直ではないか。
 あのエンディングでキャメロン監督は、「物質文明」に対する「精神文明」の優位を言いたかったのかもしれない。しかし、我々日本人は、それで一度失敗している。そう、エイワの加護を待つナヴィは、圧倒的なアメリカ軍の物量に押されながら、ひたすら神風を待ったかつての我々日本人なのです!(「精神文明」の「物質文明」に対する敗北と、その反動としての高度経済成長)

 「物質文明」に対する「精神文明」の優位をいくら強調しても、それはせいぜいアメリカ人に対して少々反省を促す程度の効果しかありません。「物質文明」対「精神文明」という安易な二項対立で「戦争」そのものの問題を解決することはできません。「戦争」そのものを解決しようとするならば、両者の対立を乗り越えた「法の支配」「国際法」を創造する視点が必要なんだろうと思うのです。

 とはいえ、やはり「アバター」はおもしろかった。なんでこれがアカデミー賞でないのか。これは「ハートロッカー」の章で再説したいと思います。

(「アバター」 ジェームズ・キャメロン監督 2009年公開)


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